信仰しているのに、不幸があると、途端に信じれなくなる人がいます。「神様を信じているのにどうして、いい事がなくで、嫌なことがくるの?これじゃ、意味ないじゃん!もうやめた!神も仏もない!」
信じているのに、受験に失敗した、病気になった、会社が倒産した、失恋した、詐欺にあった、、、。
お気持ちはわからないではないのですが、信じる意味は、けっして自分にご利益、現世利益のみ追求するのではないと思います。そうなると、交換条件、なにか取引しているみたいですよね?
人生は一冊の問題集といいます。苦難困難はだれにでも降り注ぐのですが、その時に自分に「信じられる存在」があるとなしでは、立ち向かって乗り越える意義が違ってくると思うのです。それは幼子が成長するにつけ、いつも暖かい目で見守っている親の存在に似ているのかもしれませんね。(解釈が稚拙でごめんなさい)
書籍「不動心」P82~から引用させていただきます。
「神よ、私は信仰正しく生きてきました。その私になぜこうした不幸が及ぶのでしょうか?これは何かの間違いではないのでしょうか?信仰深く生きている人には、それなりの環境が与えられてしかるべきです。それだけの成功や繁栄、栄光があってしあるべきです。それなのに私のまわりには、なぜこのような不幸が起きるのでしょうか?」
(中略)
結局「聖書」な何を教えたかったのか?といえば、「環境を呪うことによっては、幸福になれない」「環境が良ければ信仰するが、悪ければ信仰しないということでは本当の信仰ではない」ということです。
(中略)
人間に魂を鍛えるために、仏神は人間に試練を与えることがあります。魂を鍛えるために大切なのは得意の時と失意の時です。この2つの時にその人の本当の姿、本性が現れてくるものなのです。得意のときに得意とならず、失意の時に失意の底にうち沈まず、常にたんたんと努力する姿勢を、仏神は人間に要求しています。
結局、人生の不安というものは、「他人との関係のなかで、自分が相対的に下がるのではないか」と思うことに起因するのです。自分の長所だと思っていたものが、本当にそうであったのか疑わしくなるわけです。
(中略)
「外なるものが自分を害そうとしたり、自分の値打ちを下げようとしたりしたとき、それに耐えられなくなり、苦しくて転げまわっている」というのが不安の真実の姿なのです。そのときに、信仰や信念が試されていると思わなければいけません。
「自分にとって都合の良いときは信じ、都合の悪い時は信じない」というのであれば、その信仰は偽物です。それは利益誘導にしかすぎません。
人生の不安の大部分は外部に幸福の原因を見出そうとする心によるものであることを知ってください。不安が生ずるのはそれだけ自分の内部が固まっていない、自分の内部に対して責任がとれていないということなのです。
環境が変化して、それまでの、信仰を手放した会員さんもいます。猜疑心いっぱいで、そこから教団を避難する側に立つ方もいます。ブログやツイッターで、ネガティブなことを発信していますね。言論の自由なのでしょうが、一体彼らはどこに向かうのでしようか?近い将来、幸福の科学の思想が時代に受け入れられたなら、その時どう発信をするのでしょうか?ですがいつの時代も一定程度、そうしたものなのかもしれません。ならばそうした方の善なる心の変化をいつしか、受け止めるべく、愛の器を大きくしていくのが筋なのかもしれませんね。